株式会社ブレーンフォースの公式ウェブサイト コンサル・チェンバロ・ジオラマ等代表山田満の活動実績など掲載しています。

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電通での実績

1972-1974
SP
日立家電のカラーTV「ポンパ」のノベルティー担当として入社6ヶ月目で得意の宣伝部長に対してアイデアサンプルを集めノベルティー戦略についての企画プレゼンを単独で行う
1973年1月 新入社員1年目で社内懸賞論文の1位に当たる「広告八火賞」を受賞。論文テーマ:「自然環境と広告」エコロジーの概念から自然環境と調和した広告や広告会社の役割や新しい機能を提言(以降毎年高位入賞を継続)
1974-1979
新聞雑誌局
業務企画部で「新聞広告事例集」を発案・発行し新聞広告活用法の社内啓蒙を行う。毎月の社内営業会議にて最新の新聞広告事例をロビー掲示
KJ法を用いた「新聞広告の新しい機能と役割」を社内発表(左図)
・誤解を招いていたTVの視聴率と新聞の注目率の広告効果の違いを理論武装し営業部門を啓発電話による新聞広告注目率調査を毎年実施、データ分析による新聞広告効果の科学化に努める
・当時の成田豊局長の社内外講演の原稿や「電通広告年鑑」の新聞項目の執筆を担当
1978年
チェンバロ社内発表~マスコミ出演
社内の副参事懇親組織の「蟻朋会」スカラシップを得て「歴史的チェンバロの研究と復元製作」の研究発表を13階大ホールで実施、デモ演奏も行った。これがきっかけで読売新聞などマスコミに取り上げられ広報誌「電通人」の表紙に掲載された後にNHK「音楽の広場」など4回TV出演した。
1979-1980
海外留学
海外留学制度に合格しスイスジュネーブにあるCEI(後にローザンヌのIMDに統合)にてMBA取得
1980-1992
第7営業局
成田局長(前新聞雑誌局長、後に社長・会長・最高顧問を歴任)の招きで第7営業局に配属、主に国内広告主の海外広告や外資系広告主を担当した主な広告主と主要キャンペーンは以下の通り
【ヤマハ発動機】 オートバイのアジア向け各種商品の導入キャンペーンに従事、特に1982年のテレサテンをイメージキャラクターとした台湾へのスクーター導入キャンペーンは大ヒットし現在に至るまでスクーターが台湾市民の通勤の足となる程大きな社会的なインパクトを与えた。1982年ホンダとのHY戦争に敗北した得意の幹部に対しヤマハブランド再生のための企業戦略「YAMAHA Project Tomorrow 」を提案し感謝された。
【アップルコンピュータ】 1984年のマッキントッシュの日本導入キャンペーンではApple本社から多額の予算が提示され大手広告代理店7社の競合プレゼンが行われた結果、担当営業として扱いを奪取した。最終プレゼンでは米国本社に赴きスティーブ・ジョブズCEOに対し提案を行い賞賛を受けた。キービジュアルは観音達が手に手にアップルを乗せ頑迷なパソコン操作に悩む人々を救いに雲に乗って降りてくる来迎図で全国紙に見開きで掲載され、広告の教科書にもなる歴史的な広告作品となり各種広告賞を受賞した。
【日本鋼管】

 産業構造の変化への対応や重厚長大産業と大企業病からの脱却をめざし1985年日本鋼管(現JFE)はCI(Corporate Identity )の導入を決定、担当営業として社内のCIチームと共同でプログラムの企画から実施まで4年間をかけて実施した。社員の意識調査をはじめとした総合調査から新企業理念の開発、NKKへの呼称変更、新ロゴマークのデザイン開発、社歌とスローガンの社内募集や社員意識改革運動、告知キャンパーンの展開、グループ企業のCI導入まで完全実施した。(総額4億円)
BMWジャパン】 担当営業として国内市場の媒体作業や販促キャンペーンに従事した。特に法人の社長車市場ではライバルのメルセデス・ベンツの牙城であったため、1986年フラグシップ車種であった735iのブランドイメージとBMWドライバーズアイデンティティーを関連させたキャンペーンを企画提案し、CIを導入する様な革新的な経営者は社長車にBMWを選ぶと言うコンセプトの新聞広告を展開し、日経産業新聞広告賞を受賞した。
【野村證券】

1990年野村證券は法人営業から個人営業へと営業政策を転換、これまで「支店の敷居が高い」「冷たい」「親しみがない」と言った従来イメージを顧客サービスを大切にした「親しみやすく」「温かみ」のある企業イメージに転換したいと言う得意ニーズに対し、この年初めて広告使用への版権が開放されたサンテグジュペリの「星の王子さま」を提案し採用された。「星の王子さま」をキーキャラクターとしたTVや新聞、雑誌などのマスメディアへの企業広告出稿のほか、顧客に配布するノベルティーの制作、全国の支店のショウウィンドウなどの改装を実施した。企業市民としてのメセナ(文化貢献)活動を提言、1993年ウィーンフィル創立150周年記念日本公演の協賛コンサートを実施、東阪名での7公演をプロデュースし総額7億円の事業費(観客動員17,000人)となった。そのほか若手音楽家育成を願った世界的な指揮者レオナード・バーンシュタイン氏の遺志を実現したSMF(札幌ミュージックフェスティバル)の開始を社としてサポート、音楽イベントはその後、他の大手広告主も加わり現在も継続されている。
【イタリア貿易振興会】 1993年ICE(イタリア政府貿易振興会)がイタリアにおける無名ブランドを含めたイタリアファッションの日本の若い女性への浸透と購買をねらった「Moda Made in Italy」のキャンペーン(総額10億円)の入札を大手7社の広告代理店に要請、米国人コピーライターと2人でB4、50ページの企画書を作成し応札したところ扱いを奪取。モデル出身タレント、松雪泰子をイメージキャラクターに起用しイタリアロケを敢行、キャンペーンを実施した。
19931995
海外事業統括局~営業総括局
海外事業の発展のため海外拠点全社の経営分析や地域毎の市場分析などを踏まえた海外事業戦略を提言。特に本社の豊富な情報やノウハウが海外拠点に共有されていない点を克服するためのグローバルなコミュニケーションと情報共有システムの必要性を1994年の社内懸賞論文で提言し3回目の「広告八火賞」を受賞した。
19952002
情報システム局

当時の情報システム局長の招きで提言論文のグローバルシステム実現のため情報システム局の海 外担当として異動。海外拠点に出向している電通社員と本社間のE‐Mailシステムや現地社員向 けのVPNを利用したイントラネットによる情報共有システム「Webby ESQ」、さらにマーケテ ィング局と協力しアジア各地における消費者動向や市場調査データと本社とのコラボレーション を組み込んだ本格的なナレッジシステム「Global Compass」の実装を支援した。
同時に2000年問題解決のため海外拠点を回りながら各拠点のIT化の推進とITを利用した業務革新活動を支援した。また電通本社の上場に向けての準備プロジェクトの一環として当時バラバラだった

アジア拠点の業務会計システムを経理局と協力しながら本社基準に統一し、業務基幹システムとして世界標準であったドイツのSAPシステムをカスタマイズしジョブ管理を加えた汎アジア業務会計システムの開発と拠点への導入をiSiD(電通国際情報サービス)と協力体制を組みながら進めた。

2002-2004
電通総研

スイスのビジネススクールIMDに電通が寄附講座を設け、国際マーケティング担当のドミニク・ターパン教授が電通プロフェッサーに就任。同教授との共働および日本経営研究支援の担当窓口として電通総研に異動。当時のピーター・ロランジェ学長と電通成田会長を囲んだ日本のビジネスリーダーの討論会と懇親会(東京ローザンヌクラブと呼称、年2回開催)の事務局や出身校IMDの同窓会の事務方を務めた。

また日本および世界のコーポレートユニバシティー(企業内大学)を調査研究し、電通総研を中心に電通グループの教育部門を統合した電通コーポレートユニバーシティー(対象:社内、得意、媒体、社会一般)のフィージビリティースタディーのプロジェクトの一員として参画した。

その他担当ないしは関わったプロジェクトとしては、大学のブランディングと変革支援プログラム開発、慶応ビジネススクールと共同で研究を進めた電通の事業領域の未来研究、企業のコアコンピュタンスを要素分解しその因果関連をコンピュータでシミュレーションし企業価値を高める戦略を立案する企業価値創造プログラムなどがある。

2004年3 中途退職優遇制度を利用し電通を円満退職した。
電通時代の受賞歴
懸賞論文関連

・電通社内懸賞論文「広告八火賞」にて広告八火賞3回、準八火賞2回、佳作1回を受賞
・日本広告業協会懸賞論文にて銀賞1回受賞。

 

広告・実務関連

・1984年アップルコンピュータ日本参入キャンペーンにて日経産業広告賞などを受賞。
・1984年アップルコンピュータ参入キャンペーン(約5億円)、1992年イタリア貿易振興会イタリアブランド販促キャンペーン(10億円)などで競合プレゼンに勝利し新規開拓に貢献、1990年野村證券ウィーンフィル日本公演プロデュースなどで担当営業部が電通社内の営業褒章を受賞